2021年度慶應義塾大学卒業式。そして卒業について思うことと心境の変化

 本日、2022年3月23日、慶應義塾大学卒業式に出席してきました。いままで自分の中で感じることのなかった思いが湧いてきたので、ちょっと書き留めておこうと思います。

まずは日吉に向かう道中ですね。若者達と同じ会場ということでちょっと気が引けておりましたが、、、
1枚目は最寄り駅に向かう道中です。2枚目が乗り換えの武蔵小杉駅。3枚目が日吉駅からキャンパスを撮影したものですが、午前の部の学生があふれている。。。




ここからキャンパス内に入るわけですが、もうすごい人の数・・・
なんとか会場の日吉記念館まだやって参りました。入り口から直進してつきあたりが記念館。かっこいいですね。


とにかく人が多すぎるので、入場受付開始後すぐに入場。すると順番に誘導されて前から6列目というポジションに。4列目くらいまでは学部の代表で学位記を授与される人たちや表彰される人たちでしたので、ほぼ最前列。そこから撮った写真もあるのですが、写っている人たちの顔を隠すのが面倒なので非掲載で。その代わり、会場を広く撮ったものがこちら。


前方の人の塊の中の前の方に座席があります。一番通路寄りだったので、ほぼ真正面で塾長や来賓の話を聞くことになりました。この手の話はつまらないんだろうなと思っていましたが、けっこう胸にしみるものでしたね。もちろん、22、3歳の若者に向けて話しているのですが、すごく実感のある話に聞こえました。若者達が聞いたらどうなのかは分かりませんが、やはり社会に出て20数年、現実味をもって聞くことができたからなのかもしれません。若者たちには、あのとき聞いた話が今となってみれば、と思う日がいつかは来るでしょうから、いまは何とも思わなくとも、せめて話だけは憶えておいて欲しいなと感じました。

また、塾長がみなさん(卒業生)はコロナで2年間の学生生活を思うように送ることができなかったと思うという話をしていて、聞きながらハッと思いました。この2年間で社会の状況が一変して、在宅勤務の浸透による働き方の変化などは実体験として多くのサラリーマンに共通のものだと思います。学生たちも同様でリモート授業などが始まったとのことでしたが、ここはかなり考えさせられたところでした。インタラクティブではない授業はオンラインで十分だと思いますが、ゼミやサークル活動などが制限されたことによる不便さ、人的交流の縮小というのはあまり考えたことがありませんでした。自分の法政大学時代を振り返ってみれば、学問もさることながら、そこで培った人間関係というのは未だに続いているケースもあり、ここがなくなってしまうというのは可哀想だなと感じた次第です。明治大学には編入であり、ゼミもサークルも参加していなかったため知人が少なかったですし、今と違って携帯電話やメールなどがあまり普及していなかったこともあり、連絡先も分からなくなってそのままということが多く、実際にいまでも繋がりのある知人はいません。いまは連絡先が比較的容易に手元に残せるということもあるでしょうが、私の明治大学時代のようにまったく繋がりがなくなってしまうというのは残念と言うよりほかないでしょう。学生の立場で考えると、コロナ禍は大人が思うよりも大きな影響があるものなのかもしれません。

さて、式も終了し、あとは学位記をもらうのみです。外は急に寒くなってました。



上は引き渡し場所である第4校舎。近くを歩いている人も言ってましたが、夏のスクーリングでいくつも授業を受けた校舎ですね。懐かしいです。で、もらった学位記の表紙です。中身は内緒です(本物ですよw)。

さて、最後に卒業式について感じたことを記しておきます。ちょっと前にも書きましたが、私は中学校以来、自分の卒業式に出たことがありません。高校は卒業していませんのでそもそも出席すべき式がなく、2つの大学も形式張ったことが嫌いなので出席していません。当時は卒業なんて形だけのもの、ただの通過点であり重要なのはそこで何を学んだかということだというひねくれた考えがあり、実際に今日この日までそう思ってました。まぁ、本質的にはいまでも、そしてこれからもそう思うんだと思いますが、実際に今日参加してみて思ったのは、必ずしも悪いものではないなということでした。

法政、明治の時には成績はさておきとして、卒業すること自体はそんなに大変なものではなかったのですが、今回の慶應義塾大学については相当つらかったというのが率直な感想です。働きながらという点でもそうですが、自分ですべて学ばないといけないというのが通信の基本だと理解しており、そこはかなり苦労したと思っています。という点では、これまでで一番嬉しい卒業ということになります。なので、卒業式なんてさ、と斜に構えつつも楽しみにしている自分がいたのも事実で、その証拠に式に出てますからね。そして周囲の若者たち、彼らは我が息子の1世代上くらいになると思いますが、彼らが純粋に喜んだり友との再会を約束して別れたりなんていうのを見ていて楽しみにしていたんだなと感じました。それが卒業式というものなんですね。人それぞれいろんな思いがあるはずですが、それぞれの思いを胸に臨む、ただそれだけの話なのかもしれません。という意味では、私は私なりの思いで臨めたのかもしれません。

基本的に冠婚葬祭、盆暮れ正月など自分には無関係という生き方をしてきました。終わりなき日常でいいじゃないかと。基本路線はそっちのままなのかなと思いますが、こういう節目というものをもっと意識してもよいんじゃないかと、今日の卒業式に出て思っています。支配や闘いから卒業すると歌ったのは尾崎豊ですが、私の場合は変なこだわりからの卒業ということになるでしょうか。

最後となりますが、現役の慶應義塾大学通信教育課程在籍者としての投稿はこれで終わりです。まだしばらくは書いておきたいことが残っているので継続します。爆発的に読まれるようなブログではありませんでしたが、毎回一定数の閲覧数もあり、これまでの読者の方には感謝してもしきれません。

というわけで、もうしばらく続けます。
それでは。

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